"会読は、複数の人が定期的に集まって、一つのテキストを討論しながら共同で読み合う読書・学習方法である。この方法には、相互コミュニケーション性、対等性、結社性という3つの原理があった。"江戸の読書会、会読を巡る思想史である本書は予想以上の知的興奮をもたらしてくれる。
個人的には、拙いながらも毎月読書会も主宰している立場からタイトルに惹かれて本書を手にとったわけですが。江戸時代のご先祖さまたちが、中国の科挙制度などと違い勉強することが【必ずしも出世に結びつかない】時代において、ただ知的好奇心から様々に工夫をこらして学ぼうと切磋琢磨していた事実を知り、何とも誇りに感じました。また、例えばアクティブラーニング、フューチャーセンターといった外来からもたらされるカタカナ言葉をありがたがる風潮が変わらず今もありますが。そういった事が、既に江戸時代の会読において【当然のように実現していた】ことをこちらも初めて知り、なんとも時代は無条件に右肩上がりで進むのではなく、何度も繰り返すというか、そんな不思議な感慨にとらわれました。
読書会を主宰している、あるいはよく参加している誰かに、また江戸時代の教育について関心がある誰かにオススメ。
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江戸の読書会 (平凡社ライブラリー) 文庫 – 2018/9/10
前田 勉
(著)
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近世、全国の私塾、藩校で広がった読書会=会読、その対等で自由なディベイトの経験と精神が、明治維新を準備した。思想史の傑作!
- 本の長さ448ページ
- 言語日本語
- 出版社平凡社
- 発売日2018/9/10
- 寸法11.2 x 2.1 x 16.1 cm
- ISBN-104582768717
- ISBN-13978-4582768718
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商品の説明
著者について
愛知教育大学教授
登録情報
- 出版社 : 平凡社 (2018/9/10)
- 発売日 : 2018/9/10
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 448ページ
- ISBN-10 : 4582768717
- ISBN-13 : 978-4582768718
- 寸法 : 11.2 x 2.1 x 16.1 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 549,789位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2019年5月30日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
2018年11月30日に日本でレビュー済み
『江戸の読書会――会読の思想史』(前田勉著、平凡社ライブラリー)は、江戸時代の読書会、すなわち会読の発展の歴史を丹念に辿ることによって、会読が何をもたらしたのかを考察しています。
江戸時代、儒学の学習のために始まった会読は、全国に広がり、蘭学、国学の塾でも採用されていきました。それは、身分制社会の中では極めて特異な、自由で平等な討論を許容し、対等な他者を受け容れ、競い合う場を生み出しました。そこで培われた経験と精神が、幕末維新とそれに続く明治期の揺籃となったのです。
荻生徂徠の会読について、こう記されています。「対等な朋友同士で、さまざまな意見をぶつけ合うことによって、自分の限界性を認識することもできるし、自己の『知見』を広げることもできる。徂徠の経学の継承者、太宰春台が、学問をするうえで、尊厳な『師』とともに、いつでも『講習討論』できる『友』が重要であることを説いているのも、この『知見』を広げることができるからである」。「自分自身で納得することの重要性である。徂徠は、疑いを持ち、自らで考え、『自身ニわれと合点』することを強調した。異論と接せる会読は、『合点』する前提となる疑いを抱く機会を与えてくれるのである。徂徠が(師が一方的に教える)講釈を批判したのも、この点にかかわっている」。
著者は、本書をこういう言葉で結んでいます。「明治以降の近代日本社会は立身出世主義のはびこる競争社会であり、現代もなおそこから逃れることはできない。だが、競争社会に息苦しさを感ずる現代人にとって、参加者が自由に語り合える読書会は、日常生活とは別次元の社交の場であることで、積極的な意味を持っている。江戸時代の会読がこの現代の読書会に蘇ることになれば、私にとって、これ以上の喜びはない」。
中学1年生の時、社会科の大森先生から読書会に誘われ、1年間かけて、福沢諭吉の『学問のすすめ』(岩波文庫)の原文を少しずつ読み進めていったことを、懐かしく思い出しました。
江戸時代、儒学の学習のために始まった会読は、全国に広がり、蘭学、国学の塾でも採用されていきました。それは、身分制社会の中では極めて特異な、自由で平等な討論を許容し、対等な他者を受け容れ、競い合う場を生み出しました。そこで培われた経験と精神が、幕末維新とそれに続く明治期の揺籃となったのです。
荻生徂徠の会読について、こう記されています。「対等な朋友同士で、さまざまな意見をぶつけ合うことによって、自分の限界性を認識することもできるし、自己の『知見』を広げることもできる。徂徠の経学の継承者、太宰春台が、学問をするうえで、尊厳な『師』とともに、いつでも『講習討論』できる『友』が重要であることを説いているのも、この『知見』を広げることができるからである」。「自分自身で納得することの重要性である。徂徠は、疑いを持ち、自らで考え、『自身ニわれと合点』することを強調した。異論と接せる会読は、『合点』する前提となる疑いを抱く機会を与えてくれるのである。徂徠が(師が一方的に教える)講釈を批判したのも、この点にかかわっている」。
著者は、本書をこういう言葉で結んでいます。「明治以降の近代日本社会は立身出世主義のはびこる競争社会であり、現代もなおそこから逃れることはできない。だが、競争社会に息苦しさを感ずる現代人にとって、参加者が自由に語り合える読書会は、日常生活とは別次元の社交の場であることで、積極的な意味を持っている。江戸時代の会読がこの現代の読書会に蘇ることになれば、私にとって、これ以上の喜びはない」。
中学1年生の時、社会科の大森先生から読書会に誘われ、1年間かけて、福沢諭吉の『学問のすすめ』(岩波文庫)の原文を少しずつ読み進めていったことを、懐かしく思い出しました。
2013年4月9日に日本でレビュー済み
江戸時代の後期から幕末にかけて、これほどに会読
という学習法が普及していたということに、まずは驚き
ました。また、その研究が本書が示すようこれほどに多
彩に、しかも継続して行われて来たことにもっと驚きまし
た。その中でも著者は、ロナルド・P・ドアー『江戸時代の
教育』の補正に努めているように見えました。
とりあえず言えば、後期水戸学の限界−結局は殿様の
恣意に委ねられてしまう−を、参加者の対等性を梃子に
行動で突破してしまった吉田松陰や、会読の精神をご一
新の構想に盛り込むことで克服した横井小楠を跡づけた
第5章が最も読み応えがありました。
その上で著者は、明治の自由民権運動にこの伝統の
最後の輝きを見、後は「学び」の功利化と近代教員養成
体制(系統的な学習法)の確立の中で、それは途絶えた
としているのですが・・・。
『朝日新聞』2012.12.2書評(評者・出久根達郎)はそ
の復権に向け、会読は「望ましい政治家を育てるために
必要」としていますが、こんなステキな学習法、あんな人
達にはもったいないと思います。
という学習法が普及していたということに、まずは驚き
ました。また、その研究が本書が示すようこれほどに多
彩に、しかも継続して行われて来たことにもっと驚きまし
た。その中でも著者は、ロナルド・P・ドアー『江戸時代の
教育』の補正に努めているように見えました。
とりあえず言えば、後期水戸学の限界−結局は殿様の
恣意に委ねられてしまう−を、参加者の対等性を梃子に
行動で突破してしまった吉田松陰や、会読の精神をご一
新の構想に盛り込むことで克服した横井小楠を跡づけた
第5章が最も読み応えがありました。
その上で著者は、明治の自由民権運動にこの伝統の
最後の輝きを見、後は「学び」の功利化と近代教員養成
体制(系統的な学習法)の確立の中で、それは途絶えた
としているのですが・・・。
『朝日新聞』2012.12.2書評(評者・出久根達郎)はそ
の復権に向け、会読は「望ましい政治家を育てるために
必要」としていますが、こんなステキな学習法、あんな人
達にはもったいないと思います。
2012年12月23日に日本でレビュー済み
とても面白く、興味深い。
書名に「読書会」とあるが、実際は副題にある「会読」、江戸時代の主に私塾や藩校で行われた授業形態及び読書方法である「会読」について書かれている。
「会読」とは、簡単に書くと、数人で同じ書物を読み、その内容や意味を論じ語り会うこと、もしくは翻訳することである。後者の代表的な例が、『解体新書』の翻訳作業である。
第一章では、そもそも江戸時代になぜに儒学が学ばれるようになったかが説明されている。そして、儒学の教授法には「素読」「講釈」「会読」という三つの方法があったことをあげ、さらに「会読」には、相互コミュニケーション性、対等性、結社性という三つの原理があったことを指摘している。そして、第二章から第四章で、会読がどの時点で創始されたのか、儒学だけでなく蘭学や国学という場にも広がっていったこと、儒学を学ぶ私塾や藩校での実態などを様々な文献を使い、たどっていく。
素読や講釈とは違い、会読の場合、その対等性によって、競争が行われ、個々人の実力が明らかになってしまう。それだけに、藩校などの場合、身分の違う武士の子弟が同じ場で学ぶので、対等性の確保がスムーズに行われなかった場合もあったようだ。また、自主的に行われる会読は「結社性」を伴いがちなため、藩によっては神経質になった場合が指摘されている。
そして、第五章では、幕末という時代の中で、それまでは学問教授法の一形式にすぎなかった会読が、その原理ゆえに時代を変革していく精神を培っていく場になったことがダイナミックに描かれる。さらに、「相互コミュニケーション性」は異なる考えに対する「寛容」、「対等性」は身分や男女にかかわらない人間の平等、「結社性」は思想・信条の自由、といった現代にも通じる部分をも持ち得た人々を生み出していったことを実例を挙げながら検証している。
そういう意味では、明治維新が当初持っていた「精神」を会読の「場」が先取りしていたという著者の主張は、充分に納得できるものだ。
ただ、第六章で描かれるように、近代国家成立を目指す明治政府が、実学を中心とした教育体制を整え、さらには立身出世主義が大勢をしめるにしたがい、現在も続く効率的な講義形式が盛んになり、会読という形式、そしてその精神は終焉を迎えている。
読了して改めて、現在においても、会読の原理には学ぶ点があり、古典的教養にも人間の人格と結び付くことによって開かれていく「可能性」がまだまだあることを強く感じている。
書名に「読書会」とあるが、実際は副題にある「会読」、江戸時代の主に私塾や藩校で行われた授業形態及び読書方法である「会読」について書かれている。
「会読」とは、簡単に書くと、数人で同じ書物を読み、その内容や意味を論じ語り会うこと、もしくは翻訳することである。後者の代表的な例が、『解体新書』の翻訳作業である。
第一章では、そもそも江戸時代になぜに儒学が学ばれるようになったかが説明されている。そして、儒学の教授法には「素読」「講釈」「会読」という三つの方法があったことをあげ、さらに「会読」には、相互コミュニケーション性、対等性、結社性という三つの原理があったことを指摘している。そして、第二章から第四章で、会読がどの時点で創始されたのか、儒学だけでなく蘭学や国学という場にも広がっていったこと、儒学を学ぶ私塾や藩校での実態などを様々な文献を使い、たどっていく。
素読や講釈とは違い、会読の場合、その対等性によって、競争が行われ、個々人の実力が明らかになってしまう。それだけに、藩校などの場合、身分の違う武士の子弟が同じ場で学ぶので、対等性の確保がスムーズに行われなかった場合もあったようだ。また、自主的に行われる会読は「結社性」を伴いがちなため、藩によっては神経質になった場合が指摘されている。
そして、第五章では、幕末という時代の中で、それまでは学問教授法の一形式にすぎなかった会読が、その原理ゆえに時代を変革していく精神を培っていく場になったことがダイナミックに描かれる。さらに、「相互コミュニケーション性」は異なる考えに対する「寛容」、「対等性」は身分や男女にかかわらない人間の平等、「結社性」は思想・信条の自由、といった現代にも通じる部分をも持ち得た人々を生み出していったことを実例を挙げながら検証している。
そういう意味では、明治維新が当初持っていた「精神」を会読の「場」が先取りしていたという著者の主張は、充分に納得できるものだ。
ただ、第六章で描かれるように、近代国家成立を目指す明治政府が、実学を中心とした教育体制を整え、さらには立身出世主義が大勢をしめるにしたがい、現在も続く効率的な講義形式が盛んになり、会読という形式、そしてその精神は終焉を迎えている。
読了して改めて、現在においても、会読の原理には学ぶ点があり、古典的教養にも人間の人格と結び付くことによって開かれていく「可能性」がまだまだあることを強く感じている。
2013年4月2日に日本でレビュー済み
江戸時代において、儒学を学ぶやり方には、「素読」(音読と暗誦)、「講釈」(先生による講義)、および「会読」(少人数が議論を闘わせる読書会)の3種類があり、初心者はこの順序で勉強を進めたという。本書は、上級者が自由闊達にテキストの解釈を巡って論じ合い、学び合う「会読」の歴史をたどったものである。会読は、儒学だけでなく蘭学でも取り入れられ、日本全国の藩校や私塾で盛んに行われていたことを様々な史料から明らかにしていく。江戸時代にこのような学びの場があったとは意外である。
本書は、江戸時代に日本全国で行われた会読を中心とした活発な読書会が、幕末の政治情勢を反映して、内容が政治的となり、明治維新およびその後の自由民権運動に思想的な影響を及ぼしたと指摘する。吉田松陰や福沢諭吉らもまず会読において才能を発揮した。
明治になって、西洋式の「効率重視」、つまり教師による一方的な教育が普及していくと、会読による学びの場は、公的教育からはほとんど消えてしまう。戦後になって、京都大学人文科学研究所の共同研究や各大学のゼミとして会読の精神が復活し、現在では、盛んな社会人の読書会として会読の水脈は辛うじて繋がっているようだ。極端な政治的意見が跋扈する現在こそ、江戸時代の会読の精神を草の根民主主義における合意形成に活かしたいものだ。
本書は、江戸時代に日本全国で行われた会読を中心とした活発な読書会が、幕末の政治情勢を反映して、内容が政治的となり、明治維新およびその後の自由民権運動に思想的な影響を及ぼしたと指摘する。吉田松陰や福沢諭吉らもまず会読において才能を発揮した。
明治になって、西洋式の「効率重視」、つまり教師による一方的な教育が普及していくと、会読による学びの場は、公的教育からはほとんど消えてしまう。戦後になって、京都大学人文科学研究所の共同研究や各大学のゼミとして会読の精神が復活し、現在では、盛んな社会人の読書会として会読の水脈は辛うじて繋がっているようだ。極端な政治的意見が跋扈する現在こそ、江戸時代の会読の精神を草の根民主主義における合意形成に活かしたいものだ。